創刊の辞

      

ふとした事がいつまでも記憶に残ってしまうことがある。

何年前だったろうか。かなり前のことだ。一人で居酒屋にいると、隣のテーブルから激しい口論が聞こえてきた。若い二人の男。声高の内容から、一人は国語科の、相手は社会科の教師らしかった。「アフリカの食糧難をどう救済するべきか」という話題から、激し始めたらしい。社会科と思しき教師が「言葉で、文学で、世界を救えるとでも言うのか」と激しく詰め寄る。国語科の声は小さくなっていき、聞き取れなくなった。

そんな思い出である。

また、初老で物静かな生物の先生から「自然界に存在するものは、やがて土に還る。ところがプラスチックはどうであるか。原子力はどうであるか。無害化する最終処分法を見つけられない内は、それらを創り出すべきではない」と高校時代に聞いた言葉も忘れられない。

東日本大震災の途方もない被害。その被害から新たな被害への加速度的な拡がりを持つ負の連鎖。とくに原発事故では、私たちは途轍もない被害を受け続け、また同時に全世界へ多大な迷惑と恥さえもさらした。原子力の管理は掌中にあると慢心していた日本人。今回の事態はその管理能力を遥かに超えていたと言わざるを得ない。過信した人々と結果的に同調してしまっていた私たちでもあったのだ。

これらの災害は「誰か」が解決してくれるものではない。政治家だ、自衛隊だ、官僚だ、科学者だなどと言っている時では、今はない。それらを解決しうるのは、人類の「叡智」だけだと信ずる。「叡智」は人類の誕生以来、連綿と言葉が育み、成長させてきた。先の話での国語教師はとっさには思い至らなかったようだが、言葉やそれによる文学の想像力が「叡智」の源であると言い切って構わない。ゆえに「叡智」を結集させれば、自ずから路が出来ると信ずる。

「叡智」という語は、「web頌」という誌名に少なからず関わる。褒めたたえるという意味のニュアンスを持つ英単語が「ode」。「頌歌」なとどと訳される場合が多い様だ。その「頌歌」の「頌」の字を借用して、誌名を「頌」とした。それが第一次「頌」。今回創刊した号からは第二次だ。「web頌」と書いて「ウエブ・オード」と読む。完全な当て字。名付けた意味合いは、私たちの自画自賛では、もちろんない。いつも矜持を高く持ち、名前負けのしない言葉を紡いで行こうという自戒の念からである。

表紙・挿画は第一次より代わらず、近藤真己氏にお願いした。

読者の皆様より、当誌や掲載者の文章に対する御意見を頂戴できれば至高の幸いである。

記 安堂俊雄

 
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