「編集後記」に代えて
 
 国内外を問わず実に多難な年であった。
 こうは言っても、今年が終わったわけではない。しかし年が代わることで、新たな展開が望めるのならば、今年という年はもうご免こうむりたい。
 
 「平家物語」を折にふれて手にとる。
言いわけがましいが、古文だからすらすらとは読めない。したがって「読む」とは言い得ず、本を「手にとる」というしかないのが少々情けない。
 ここ彼処に面白さが横溢する。古文の読解の不得手さを割り引いても、読むたびに新鮮だ。もっとも、だからこそ「古典」との称号を得ているのだろうけれど。
本を開くたび、言い換えれば、歳を追うごとにますます心を捉えて放さないのは、やはり冒頭の一節に外ならない。
 「諸行無常の響きあり」。この抹香臭い言葉を以前は敬遠していた。しかし、平成23年3月11日からこちら、心にしみる。
 
 杞憂。この語が日本人に持つ意味合いは3・11の前後で大きく変質した、と考えている。
日本人にとって、と言い表すのは正しくないかも知れない。平成に生きる日本人にとって、と言い換えた方が良い。なぜならば、私たちが生きていく過程で、自身の立脚点を否応なく凝視しなければならなくなった事柄は数多いからである。オーム真理教による一連の事件しかり。昭和を生きた経験のある者には敗戦に至るまでの戦争しかり。明治の者にとっては王政復古しかり。枚挙に暇がない。
 杞憂におびえ、ふるえながら後半生を生きた詩人がいた。原民喜という。彼の抱いた杞憂を真剣に取り合う者はいなかった。今でも彼の杞憂を頭で理解できる者こそいるが、一緒にふるえる者はいない。私もふるえることは出来ない。
 しかし、3・11以降、原の杞憂と共通した何かが私たちに覆い被さりつつあるのは確かであろう。
 今年が過ぎれば、杞憂から解放されるわけではないと判ってはいるが。もう今年は願い下げだ。
 
(文・安堂)
 
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