二枚目のお札 (女遊戸海岸再海水浴場化計画成就祈願) 1/3枚目

    二枚目のお札
    
(女遊戸海岸再海水浴場化計画成就祈願)

 
                              山根 新   
    
           
 
 
 
 家の外に、いきものらしい、ほのかなあたたかみを感じた。
 玄関の引き戸は、風でガタガタ鳴っている。津波で海水に浸かり、建てつけが悪くなったせいもあるけれど、ことさら今日の北上山地からの風は、肌に刺さる。
 ひさしぶりに風花が舞い、以前は田んぼだった荒れ地や、枯れ木におおわれた斜面の窪みに、吹き溜まっている。
 祖母を週に一度のディサービスに送り出し、その日は必ずと決めている、今は使われていない客室全室の、週に一度の掃除をすませ、簡単な昼食、これからさて観音様のお堂の掃除に出かけようかという、その矢先だった。
 一瞬気配を感じた。しかしそのまま、ガラガラッと引き戸を引いた。その、あたたかい、息をしているものが、飛びすさる。玄関の前の駐車場を、家の前の道の手前まで逃げ、なぜか急ブレーキ。そして、あたりをキョロキョロ見まわしてる。スッとしたうしろあしと、キュンとしたお尻と、くるんとしたしっぽ。若い柴犬だ。わたしは、
「ひこいち」と呼んだ。
 お尻を向けたまま、ピンとした首もこっちに向けた。やっぱり、彦一。わたしは、箒とちりとり、水の入ったペットボトルを投げ出し、走り寄る。
 しゃがんで、胸もとに抱き寄せた彦一の体は、冷えきっている。息は荒い。お腹も空かせているんだろう。舞い落ちる風花が、こちらを見上げ、クンクンしている鼻面に、くっついては消えてゆく。
 彦一は、首に何か下げている。首輪になったひもに、板切れみたいなものが結んである。わたしは彦一に、
「これはずしたら、ごはんやっからね」と声をかけ、それをはずそうとした。
 彦一が手をペロペロなめるので、くすぐったかった。とりあえずはずすのをやめ、地べたに伏せるようにして、彦一の首に掛けたままの、その板切れを手にした。
それはちょうど葉書の大きさ、花巻駅前のりんぷう舎で売っている、おみやげ品のようだ。お店で買ってからそのまま郵便で出せるように、片面が宛先と通信欄、切手も貼れるようになっている。
裏返すと、実はそっちが表で、黒板に見立てた黒地に、チョークに似せた白い字で、
「下ノ畑ニヲリマス
       賢治」
と印刷されている。宮澤賢治の、スッとしててちょっと気取った板書の字そのままだ。要は、賢治が花巻の豊沢川河畔で羅須地人会をやっていたとき、地域の仲間のため自宅の壁に取りつけた、掲示板に似せたものなのだ。
 けれど、彦一が首から下げていた板切れは、ちょっとようすが違っていた。表側の黒地には、「下ノ畑…」のかわりにこんなことが記されていた。
「女遊戸海岸再海水浴場化計画成就祈願」
そして、裏の宛先は、
「前川麻里様 まりっぺ マリちゃんへ
コノ御札 女遊戸観音堂ヘ奉納方謹ンデオ願エ申シ上ゲマス
イヅモまりっぺニオコラレテバッカリノ デモイツモ元気ナ ういっちゃん 山口雨一 拝」

「ひこいち」わたしは民宿の前の駐車場で、あたりを見まわし、呼んだ。返事がない。
「ひこいちっ」わたしは道に出て、ふたたび呼んだ。声が山間の、人気のない集落に響き渡り、消える。
 宮古栽培漁業センターで守衛をしていた徳逸さんが、実家のある釜石から彦一を連れて来て、番犬にした。でも、とっても人なつっこい犬で、番犬としてはあんまり役に立たなかったようだ。むしろ、赤松林の奥にポツンと建っている施設で、たったひとり住みこみで守衛をしている徳逸さんや、センターの職員のペットがわりの印象だった。
 徳逸さんがぎっくり腰で市民病院に入院して以来、職員の志田さんに頼まれて、わたしが彦一の世話をすることになった。
 仕事の合間の犬の世話は、けっこう負担だ。でも、毎日わたしは朝と夕方、彦一をつれて海に出かけた。
 やわらかな日射しが、海と岸辺のすみずみまで、満たしている。わたしは、彦一と波打ちぎわでひとしきり遊んでから、防潮堤のわきの砂利に寝っ転がる。微風が、寝っ転がったわたしと、白い雲と高い空との間を、過ぎてゆく。その高い空には、波にきしむ木の舟みたいな、トンビ。明晰な景色の中、わたしは、短くしかし深い眠りに落ちる……。
 その短い昼寝とくらべて夜の眠りは、わたしには、いろんなやり残しへのいろんな思い、その末のフェイドアウト。泥の海に、こうやって手の甲を合わせて差しこみ、ずぶっともぐりこむ。やがて、微光が射しこむぬるい海のどこかからともなく現れるマナティの、胸びれに危なっかしく抱っこされた、浅い眠り。
毎晩の、そのくりかえし。
 ……やがて、砂利の上に寝っ転がったわたしの、まぶたを通した潤んだ光の空間が、ふいに翳る。それからなまあったかい、いきもののツバ臭いにおい。
 目を開く。彦一がわたしにのしかかり、わたしの顔をペロペロなめている。目ざめたわたしも、彦一をハガイジメにして、なめにかかる。が、ヒトのベロは、悲しく短い。が、イヌの顔は、楽しく長い。で、ヒトのわたしにもなめることができたんだ、彦一の鼻面を。彦一は鼻面なめられ、クシャミを、ひとつ。
 波の音は小止みなくしていて、まるで、耳の奥に底ごもりしてしまったよう……。

 
そのあと、いつもどおり彦一とわたしは、女遊戸の集落にもどり、観音堂に向かう。
 朝は、お堂の掃除と水かえ、お灯明上げ。夕方は、お堂の鍵かけ。そしてわたしは朝夕、観音様に手を合わせる。
 母さんの死によって、なんとなく引き継いだだけの、仕事のひとつ。
 けれどわたしは、なぜだかいつも長いこと、観音様の前で手を合わせる。その横で、彦一はキチンとお座りをして、そのようすを見ている。ときどきアクビしたり、前足をなめたり、うしろあしで首のうしろを掻いたりしてるけれど、まあ、たいがいは行儀がいい。
 そして観音様は、わたしと彦一のそんなようすを、黙って見てくれていた、いつも。あの、ふくよかな、やさしいおもざしで。
 あのころは、民宿「はまかぜ」を、必ずしも自分の意志ではなくまかされ、いろんな悩みをかかえてはいたけれど、わたしには、特別な片隅があった。女遊戸海水浴場と、女遊戸観音堂。もちろんそこにはいつも、彦一のひげづらが、なくてはならなかった。
 ところがある日、彦一は綱を切って逃げた。逃げたっていうのはたぶん、ちがう。だって、いったい誰から、どこへ逃げたっていうんだろう、あの寒空に。でも彦一は、どこかへ行ってしまった。去年の今時分、2月の中ごろだったから、震災のちょうど1ヶ月前のことだ。

 
 3月11日、あの津波はいともかんたんに防潮堤を破壊し、海水が無数の瓦礫とともに、集落に流れこんだ。人の被害がほとんどなかったのは、避難が素早く、整然となされたからだ。
 我が家も、水産高校で実技指導をしている父が、海外漁業研修で東南アジアに出張中だった中、高齢の祖父母とともに、高台の佐藤さんの敷地にある竹藪に逃げ、難を逃れた。
 しかし、我が家にとっても、集落の他の家族にとっても、ほんとうの難儀がはじまったのは、そののちの避難生活でだった。
家を流され、着の身着のままの避難所生活、そのあとも仮設住宅暮らしを強いられた人たちの困難は、察するにあまりある。
 「はまかぜ」は、津波が引いたあともどってみると、床上浸水で、瓦礫が家中を埋めつくしていた。しかし、さいわい二階は無事だったから、まだマシな方だった。
 とはいえ、祖父母が住んでいた離れが海水に浸かり、傷みが激しくて使用できなくなったので、母家の二階、つまり民宿部分の狭い部屋での生活をせざるを得なくなったこと、女遊戸海水浴場が閉鎖され、必然的に民宿を閉めざるを得なかったこと、そしてなにより、沿岸の人間にとってはまさに生業だった漁ができなくなったこと、それらのことが、祖父母の老いを早めた。
 祖母はもともと膝が悪かったが、かいがいしく「はまかぜ」の手伝いをしてくれていた。が、震災後の閉ざされた生活の中、完全に足腰が立たなくなった。
 祖父は毎朝出漁し、とれたての魚を宿で出すのを生き甲斐にしていた。息子であるわたしの父とともにウニの養殖も手がけ、口開けの朝、生きたウニの殻を割って大皿にのせ、朝食で振る舞うのが、岩手日報で紹介されたことがあるほどの、「はまかぜ」のウリだった。
 その祖父も、バランスがとれた海と陸との生活の片翼、海での生活をもぎ取られ、笑ってしまいそうなくらい、みごとにボケた。今は、盛岡のグループホームで、余生を過ごしている。

 
「ひこいちーっ!」わたしは、今度は声を張り上げ、呼んだ。これで三度目。
 今日こそ、わたしは、彦一が首に下げたお札を、観音様に納めさせようと思っていた。
 女遊戸へもどって来たころ、彦一は綱もつけていないのに、庭の中をウロウロしているだけ、空腹のはずなのに、ご飯も半分残してしまう始末。
今思えば、そのときの彦一の体は、衰弱しきっていて、食べ物も受けつけないほどだったんだろう。
 この一年間、どこで何をしていたのか。彦一にたずねても、半分以上食べ残した器を前に、箒で床を掃くみたいに、しっぽを弱々しく振り、わたしを見上げているだけ。表情は、人でいうと、困ってしまってとりあえず薄笑い、とでもいうか。
 ところが、季節が4月、5月、6月、7月とあれよあれよと進行し、あたりの廃墟と枯れ野が、まるで誰かがかけた魔法みたいに、緑の野、初夏の風景にさまがわりするのと同時進行するように、彦一も変化した。
 帰って来てから、首輪も綱もつけていなかったこともあるけれど、どこをどうほっつき歩いてるのか、食事以外のたいがいの時間、家に帰って来なくなった。
 彦一の、飼い犬から野良犬への変貌。そんなふうに思え、わたしにはちょっと悩ましかった。
 もちろん、いぜんとして謎のまま残っていた。いったい、女遊戸から逃げ出してからの一年間、彦一はどこで何をしていたのか。
 手がかりの一つは、もちろんあの、彦一が首から下げている、ういっちゃんの手になるらしい、一枚のお札だ。
 でも、そのお札に書いてある、女遊戸海岸再海水浴場化計画って、いったい何?ただの冗談?
 呼んでもちっとも姿を見せない彦一のかわりに、これもまたちっとも姿を見せないもう一匹〔?〕の風来坊に、道のまんなかで、チリトリと箒とペットボトルをかかえ、たたずんだまま、わたしは思わず、
「ういっちゃん」と、小さく呼びかけてみる。
 呼んだといったって、「はまかぜ」をやっていたころの呼び方とは全然ちがい、思い出の中のういっちゃんに、そっと呼びかけてみただけ。
 繁忙期、ういっちゃんにいつも民宿を手伝ってもらっていたとき、ういっちゃんを何かの用事で呼ぶときは、いっつも、どこかイライラしながら、声を張り上げる感じだった。
「ほらほら、珍しくまちに遊びさいっだとおもっでだら、やっぱり敬ちゃんたちにさそわれで、よっだぐれで。今日は、口あげだよ、はやくおぎで、浜さいっで、おじいさんてつだわなげれば!」
「おじいさんに、作業場のウニの殻の片づけはおねげえして、あとは、配膳だよ!」
「ういっちゃん、ごめんねえ、配膳終わっだら、海いっだわらすが砂持ちこんだみでえがら、もう一回お風呂の掃除ね!」
「わたし魚菜に買い出し行っでぐっがら、観音様のお掃除たのんだよ!」
「そりゃもちろん、信心も大事だよ。観音堂は清潔でなによりだ。ほんどに、ほれぼれしそうな、観音様に、観音堂、だけどねえ、ういっちゃん、客室があんなにわとり小屋みでえにちらがっででいいもんかね!」ざっと、こんなようす。
 すると、ういっちゃん、いっつもちょっとタイミングをずらした感じであらわれる。そして、なんといったらいいんだろう、くやしいくらい、わたしの思惑とは全然ちがうやり方で、ものごとをなんとなく解決してしまうんだ。
 三年前、母さんの子宮癌が見つかり、あれよあれよという間に病状が悪化、半年後に他界してから、盛岡の短大を出たばかりのわたしが、「はまかぜ」の切り盛りをまかされることになった。それ以来、ういっちゃんにもたれかかるようにして、いろんな無理を聞いてもらった。今では、ほんとにしみじみ、そう思う。
 けれど、そのういっちゃん、実はあの3月11日、宮古にいたのかどうかさえ、よくわからない。
 海水浴のシーズンは、いつも「はまかぜ」を手伝ってくれていた。しかしそれ以外は、女遊戸のもう一軒の民宿で、わたしの叔母さんの静子さんがやっている「正三郎家」の手伝いをしたり、漁港に面した水産加工場でサンマや鮭をさばいて箱詰めしたり、魚菜市場の清掃業務に携わったり、亡くなった先代の社長のときからお世話になっていた、末広町の山根魚店の手伝いをしたり、市の、浄土ヶ浜の清掃ボランティアに狩り出されたり、サンマの漁期だけ開設されるサンマ保育園で子どもの世話をしたり、たいがいは、地元で過ごすのを常としていた。〔地元といっても、ういっちゃんがどこで生まれどこで育ったのか、ちゃんと知っている人が、誰もいないようなのだけれど……〕。
 だからあの日、というより正確には、あの大震災の日から数日がたち、宮古の人々は、身のまわりの、家族、親戚、職場の同僚など、それぞれのたいせつな人の安否について、全然平気だった人、なんとか助かった人、死体で見つかった人、行方不明の人、つまり、安堵と、悲しみと、不安と、みんなそれぞれの日々を過ごす中、
「そういゃあ、雨一さんは、はあ、どうしたんだべ」と、ういっちゃんのことが、みんなの頭によぎり、そしてそのういっちゃんについて、お互い話し合うようにもなったらしかったのだ。
 とくに、避難所生活を余儀なくされた人々の間で、ういっちゃんは特別な関心を持たれたらしい。
 避難所で、さまざまな安否情報が飛びかう中、「あの朝、ういっちゃん、藤原埠頭でラジオさかげで、ひどりでラジオ体操さしてだ」
「なんで、ひどりで」
「なんも、ういっちゃん、よぐいろんなとこでラジオ体操してんだ、けんこのためって。古いほの魚市場の前だどが、熊野神社の境内だどが、女遊戸の海水浴場だどが、浄土が浜のレストハウスの前だどが、熱心なもんだあ」
「夏休みには、鍬ヶ崎小学校でやってるべ。」
「わらすといっしょになあ」
「うん、ういっちゃんもわらすっこも、出席カードにハンコもらうの楽しみにしでだっけ」
「で、老人会の会長もそれさ見でで、おれらもまざっでラジオ体操さやるべえって、鍬ヶ崎郵便局の局長に、出席カードの調達頼んでだっけ」
「じじもばばも、わらすも、ういっちゃんも、ほんどにたのしそうだっだ」
「そんながで、死んだじじもばばも数知れね……」
「うんまあ、それはともがぐおいどいで……ういっちゃん、今どうしてるべ」
だとか、
「いどごが津波に飲まれで、すんでのどごでたすがっで、宮古病院さへえっでで、こっぢもすごしおぢづいだがら、見舞いさいっだら、『わだすのいのぢ今あんのは、はあ、ういっちゃんのおかげだ』っつうのよ」
「なんで」
「いどごの清子さ、水産加工場ではだらいでで、地震さあっだ。鍬小の方さ逃げればいいもんを、上町の家さ位牌取りにもどろどしで、津波に瓦礫ともども流されだ」
「うんうん」
「運よぐ瓦礫の中の業務用冷蔵庫の上さのっで、だけんど海の方さ流されそうなどご、石垣の上から手をのばしでけだ半袖シャツのひどがいだ」
「うんうん」
「そんひどにすがっで、石垣の上になんとかあがっだ。で、ぎゃぐにそんひどが、濁流におっごぢだ」
「はあーっ」
「そんひどは、そのうぢ海の上の瓦礫にまぎれで、みえなぐなっだって」
「なんで、そんひどがういっちゃんだってわがっだのよ」
「そんひども、いちどはおっごずで流されで、はいあがっだみてえで、ぬれねずみ、そんでめのめえで、まだおっごぢだ。だけんどやっぱりういっちゃんだって一目でわがっだっで」
「だがら、なんでさ」
「この季節に、宮古で半そででうろうろしてんのは、ういっちゃんぐれえだがらなあっで」
だとか、
「うんにゃあ、ういっちゃん、あの日は宮古にいながったんだあ」
「なんで」
「あの日たまたま、おいっこの健一があ、製氷工場の非番で、磯鶏のともだぢと夏油スキー場にスノボいっだっで。あさいぢでそこのリフトのろうどしだら、
『よっ健坊、元気そでなにより!』
ってリフトのイスの上、箒でサッサッと掃いてのせでぐれだっで」
「それが、ういっちゃんだったって」
「うん、そうらしがっだなあ」
「北上のスキー場で働いてたんだなあ」
「うん」
「ほおお、んだら、ういっちゃん、きっど無事だな」
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