編集後記

  世界のどこでテロが起こるか予想などつかない。それほど憎むべきテロが多発している。どのような背景があろうとも、手段としてのテロは許されない。言うまでもない。当然のことである。
 国内を含む国際情勢を考えるのは非常に重要であり、テロの発生を耳にするたびに悲嘆にくれる。しかし同時に僕は、もう少し別の次元の事を考えてしまう。
 「テロ」ないしは「テロリスト」という言葉についてである。
 言葉、単語には強いイメージが付随していることが多い。「テロ」「テロリスト」はイコール「悪」という強力なイメージがある。もちろん誤った概念であろうはずがない。
 単に語義的な意味ではなく、「テロ」の語の含有する意味は何であろうか。テロを起こす輩はどんな立場の人間なのか。反社会的であり、所属する環境の現体制に我慢できない人間ではないのか。繰り返しになるが、その打開の手段としてテロを選ぶのは言語道断である。
 江戸幕末の京都は、テロの嵐であったそうだ。討幕派が幕府側に立つ人間を暗殺する。佐幕側は新撰組や見廻り組に代表されるように、討幕派を襲撃する。泥仕合であったらしい。
 しかし、双方とも自分たちの所業を、今の言葉でいうテロとは認識していなかっただろう。殺人は悪でも、自分のしていることは必要悪だという思いではなかったか。所属する幕府なり、藩なり、その体制の維持発展のためと信じ、各々の体制に反対する反社会的勢力と戦っていたに過ぎない、との見方も出来る。
 つまり「テロ」と言う語には、体制側からその体制を覆そうとする者たちへの都合の良い「悪」というイメージが付いてまわっている気がする。
 テロがクーデターに発展し、彼奴らが体制側に立ったとすれば、それまでの悪業はテロとは呼ばれなくなる。
 テロ行為は憎んでも憎み足りない。しかし、「テロ」という語が、無意識の裡にも、何故「悪」と直結するのか、テロ行為を根源から撲滅させるためにも再考することは無駄ではないと思う。           
                                               (文責 安堂俊雄)
 
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