(文責・佐藤裕)
編集後記に代えて                 
生きていくこと
年をかさねていくと、若い頃の本を読み返すことが多くなった。吉本隆明の「心的現象論序説」を読んでいる。吉本は「心的な領域を、個体が外界と身体という二つの領域からおしだされた原生的な疎外の領域」としている。
これだけではなんのことだかわからないが、ものを考えるきっかけになる。吉本の理論は難しくて了解困難だが、様々なことを考えるきっかけを与えてくれることが多い。それだけ内容が豊富で多岐にわたった思考を吉本はしているからだろうと勝手に思い込んでいる。
心というか、性格というか、反応というか、当然個々人の考え方やもののとらえ方は異なっている。それは、生来のものもあるだろうし、生育歴から影響されたものもあるだろう。いうなれば複雑すぎて解き明かすことが難しい。「自分のことだってよくわからないのに他人のことがわかるはずがない」と私は思っている。そういう者にとって、吉本の心的領域の定義は非常にわかりやすい。自分勝手に理解ができるという点で非常にありがたい。
児童相談所にいると、親の見立てや子どもの見立てが大切になる。虐待などは親と子どもの力関係によって生ずる場合が多いので、少しその関係をずらすことによって虐待に至らないですむことが多々ある。それを気付いてもらうためにも、親の心の動きと子どもの心の動きを理解することが大切になる。
毎日この仕事をしていると、百人百通りの考えがあるように感じられ、少々空しくなることがある。言うなれば、どういうとらえ方でもよいように感じられる。「大勢に影響なし」と思えてくる。その時、吉本の定義はその後ろに広がる膨大な思考の体系を考えなければ、慰安を与えてくれる。現実に起こっていることと本質論の違いは当然あるが。
なぜ生きているのだろう。若年の頃に襲うこの問いは、仕事につくことや家庭をもつことによって忘れ去られる。年老いて、またこの問いが襲ってきている。生きていることにあまり意味はないと思っている。死なないから生きている程度のことである。よく六十年も生きてきたものだと感慨深い。うつ病にり患した知人の女性がいる。「胸にナイフが刺さる」ような苦しさであると訴えるが、私にはそれが実感としてわからない。苦しんでいる様子は毎日のように見ているので、「大変だなぁ。代わってあげたい」と思うが、それは不可能であるし不遜である。「死んでしまいたい」と言うこともあるが、「小さい子どもがいるから死ねない」とも言う。生と死を考えてしまう。長く生きると幸福よりも不幸を経験することの方が多くなるような気がする。
いじめが原因で自殺する中学生や生活苦で命を絶つ中高年を新聞で目にする。一方で、ホームレスになっても生き続ける人々がいる。それぞれの人生観によるものなのか、惰性でそうなるのか、はたまた日本社会の負の部分なのか。いろいろな解釈を試みても「人は人」と結論付けるしかないし、どちらが正しいとも言えない。不条理は人間社会の常である。
いずれにしても、西行法師が詠んだ
「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」
のように、桜が驟雨のように舞っているなかで、死を迎えたい。
 
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