淡行線に乗ってみた 2/2    
 
 
 二両目は、窓が一つもない車両だった。床も壁も、洗い立ての敷布をピンと張り巡らしたみたいに、無表情にただただ、白い。
 抱いた印象としては、夜間診療所の待合室。というより、霊安室。ただし、柩が安置される前、あるいは運び出されたあとの、がらんとした霊安室。
 僕のひんやりした心や体や霊魂に、その部屋の雰囲気は、ピッタリだ。
 霊安室を満たしている照明の光も、不思議。思わず天井を見上げて、びっくり。
 車両の天井がまるごと取りはずされ、広々とした夜空に、月が煌々と照っていた。
 見はじめは、満月だった。それが、少しづつ欠けてゆき、糸のような上弦の月になり、ついには、真っ暗な朔月になった。
 僕が月の盈虚に気を取られているうちに、車内にも変化が生じていた。というより、やがて闇の中に、待ちわびた新月があらわれ、薄光が室内を満たしはじめると、今まで見えなかったものが、徐々に姿をあらわしたようだったのです。
 柩が安置されるべき霊安室のまん中にとつぜん置かれた、大きな物。いや、物ではない、うずくまるようにして、じかに床に座っている、人、正確に言うと、体操座りしている、女。
 女、と思ったのは、垂らしている長い髪みたいなもの、腰まわりに広がった、スカートみたいなもの、そのふんわりしたスカートみたいなものを、両側から押さえつけている、すらっとした手みたいなもの、それでです。
 みるみる月は肥え太り、ますます炎は冷たく燃え、不可解な引力により、僕はその体操座りの女に近寄って行った、恐る恐る。
 が、彼女、動かない。僕はさらに接近し、しゃがむ。彼女の息づかいが聞こえそうなほど。濃い髪に隠れた、首筋の匂いが嗅げそうなほど。
 が、黒髪と見えていた長い髪は、月明かりの中、みるみる濃緑色になり、真緑になり、新緑に萌え上がる。僕は、叫び声を上げた。
 が、太古、そもそもこの地上で声を発したのは、僕らの方ではなく、彼女らの方だった。
 そして、指と指の間に緑の薄皮のあるしなやかな手で、緑滴る、水草みたいな髪を大胆にざらっと掻き上げると、頭部のない、すっきり平たい顔の上に、二つの目があらわれた。おっきな二つの目、その、水っ気たっぷりなつぶらな瞳には、澄み渡った夜空を背にした、満月が映っていた。その目の中の月の前を、しずしずと、巨大な帆掛け船みたいな雲が、横切ってさえ行った。
 僕は、立ち上がった。そして、体操座りした女を見下ろしたのです。
 と、見下ろしたその緑の背中が、縦にぱっくり裂け、まばゆい光につつまれた、というか、光そのもののまんまるいものが現れ、シュポンと飛び出し、車両の天井の上の、ガランドーの空の、その彼方にゆっくりと消え去った。
 と、見る見る夜が明け放たれ、青空を太陽が輝き渡ったのです。
 彼女が背中から産んだのは、原初の太陽だった。
 と、彼女は、あどけない微笑みを浮かべたその顔を、こちらに向けた。
 あなたは、両生類の微笑みを見たことがありますか?僕は、はじめて。
 彼女の微笑みに心奪われたのか、それとも異類への嫌悪か、僕はそれらがない混ぜになった惑乱のうちに、その微笑みを見ていた。
 彼女は、ゆっくり立ち上がりました。いや、立ち上がったというより、それは、それはそれは優雅なジャンプだった、プリマ・バレリーナみたいな。
 ただ彼女は、バレリーナみたいな、蜉蝣の羽根みたいなのじゃなくて、劇場の緞帳みたいな、分厚く深々とした、緑のスカートを穿いていた。
 高速度撮影みたいなジャンプで、その緞帳が緑の空気を孕み、着地と同時に緑の空気、いや、水をドッと吐き出し、あたりは緑の大洪水。
 僕は、その渦に足もとから浚われた。
 洪水は車両から溢れ出し、いつの間にか淡行線が到着していたらしい、終点の勝坂駅の駅舎をも乗り越える。そのあとのことはもう、おぼえてない。
 次に気づいたのは、視野いっぱいの青い空、広々としてて、水っ気たっぷりの、ただし雲ひとつない、ただの空。
 あとで知ったことですが、僕は原っぱに、寝っ転がっていた。正確にいうと、そこは柔らかい草に覆われた、なだらかな丘。勝坂遺跡。
 大の字になった僕を、覗きこんでいる人たちがいる。空を背にしているので、顔はわからない。が、顎の髭が見える顔がある。長くて立派な髭。顔全体が、髭でおおわれているような顔もある。あとは、首飾りをした女。女の顔の横から、赤ん坊の顔がのぞいてる。女がおぶっているのだ。
 と、バラバラと、息を弾ませた子どもたちの顔が、僕のまわりに犇めいた。
 と、ちっちゃな手が横から不意に現れ、僕の鼻のあたりを触った。垢だらけで臭い手。触ったとたん、その手は僕の鼻を、ギッと、昭和時代のテレビのチャンネルかなんぞのように、捻った。
 手の持ち主は、素っ裸の二歳くらいの男の子。出べそで、チンチン剥き出し、僕の横にしゃがみこんでる。そして、僕の顔を覗きこみ、ニッと笑った。
 そこへ、母親らしい女が現れた。何か叫んで、僕からもぎ離すようにして、男の子を連れ去った。
 僕は、ゆっくり身を起こしました、あまりの鼻の痛さに。
 と、まわりの人たちの間に、動揺が広がりました。
 そして僕は、彼らが囁き交わすのを聞いた。てんで理解できないけれど、しかしどこか懐かしい、声々。_
 
 
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