津久井やまゆり園の殺人事件に思う
                                    佐藤 裕
 
とうとうここまで来てしまった。日本の「個」に対する軽視が、とうとう大量殺人を起こしてしまった。犯人の青年は、「個」の境界を軽く飛び越え、己と同じ地平にあると錯覚して、重度障害者を己の心と一緒に抹殺してしまった。
重度障害者との会話は難しい。しかし、健常者と称される人の心的世界と重度障害者の心的世界は異なる。生きることに、社会で生活することに困難さは抱えているが、各々の心的世界は確実に「個」の中に生き続けている。それがどれほど豊饒なものなのか、どれほど貧弱なものなのか、健常者も障害者も等しく個々人が知るのみである。
この基本的な原理を忘れ、功利的な視点から「個」を捉える風潮に激しい憎悪を覚える。社会に絶対に必要な人もいないし、絶対に不必要な人もいない。元々必要不必要で生は計れない。人は「個」として出生し、「個」として終焉を迎える。それがどれほどの長さなのかは、「個」の運命による。「個」としての人間が、家族を形成し、社会を形成する。それは、単純に輪を拡大したものではない。「個」の中の幻想性は、家族にも社会にも還元できない尊さを持っている。
「個」の幻想性を一瞬にして無にしてしまった青年の愚かさは、青年の生育歴だけに求められるだろうか。はたまた、薬物依存のような弱さにだけ求められるだろうか。これは、青年が育った日本という土壌に原因があり、「個」を軽視する日本の風土に理由がある。青年もその風土に飲み込まれ、多様な「考え方」の中から、歪んだ思いを抱いていったのだろう。
「個」の幻想性は、私の詩の拠って立つところである。殺害された重度障害者は、殺害された私である。どういう思いを抱こうが、それは個人の勝手である。しかし、その思いによって、「個」の幻想性を抹殺することは、どのような理由があっても許されるべきではない。戦争などは論外な行為である。
作家の辺見庸が神奈川新聞に事件のことを綴っている。「誰が、誰を、なぜ殺したのか-こんな肝心なことが正直よくわからない」とし、続けて、「ひょっとしたらナチズムやニッポン軍国主義の根が、往時とすっかりよそおいをかえて、いま息をふきかえしていないか」という疑問を「われわれ」という「地つづきの曠野」に問いかけている。そして、「生きる術さえない徹底的な弱者こそが、もっとも生きるに値する存在であるかもしれない」というアンチテーゼを自らの黒々とした空虚に問いかけている。
こうした深い懐疑こそが、これからの「個」の幻想性、家族や社会の幻想に必要なものである。見えないものへの想像力や適度な孤絶こそが、今日の日本人に求められている。また、私が大切にする「個」の幻想性をそのまま完結するのではなく、社会と交錯するなかで、社会の微弱な光を「個」の幻想性に含有させることが、私の今後の課題であることが痛切に心に刺さった事件である。
  目次に戻る